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私がLo-fi Hip Hopという一種のカルチャーに抱く嫌悪感の正体

最近(というほど最近でもないが)、"Lo-fi Hip Hop(ローファイ・ヒップホップ)”・"Lo-fi beats(ローファイ・ビーツ)"なる音楽ジャンルがストリーミングサービスやSNSを中心に話題となっており、日本での認知度も特に若者の中で高くなってきた。
はっきり言うが、私はこの手のジャンルが嫌いである。ただ音楽それ自体は耳馴染みもよく、なんだかんだ聴いていると「これは良いなあ」となる。では私のこの何とも言えない嫌悪感は何なのか。その正体を言語化していく。

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音楽性より、カルチャー自体

Lo-fi Hip Hopのここが嫌い、というところ3点を以下にまとめた。
これを見てわかるのは、すべてが「音楽に付随するカルチャーイメージ」への嫌悪感だということだ。ハードロックは好きだがそのプロモーションからギチギチの商業主義を感じて嫌悪する、そんな80年代のロックキッズ達と似たようなものかもしれない。

  1. 日本のアニメーションと安っぽい「エモい」の連想
  2. 肩の力を抜いた鼻につく「シティ感」
  3. チル、トリップ、冷笑主義とネット社会
  4. タダ乗り主義と音楽の「オブジェ化」

日本のアニメーションと安っぽい「エモい」の連想

まずは、Lo-fi Hip Hopの特徴とも言える日本の古いアニメ―ションによるビジュアライズに関するものだ。
元々僕はLo-fi Hip HopをSNSで知った。日本のアニメーションと共に垂れ流されるその音楽は確かに感じのいいものだった。そしてコメント欄曰くそれは「エモい」らしい。

「エモい」は思考の停止だ。それは何のどういうところになぜ心惹かれたのかを全く語ろうとしない。ちょっと雰囲気だけお洒落な視覚情報にとかく若い人はエモいと言いたがる。
事後にタバコを吸ってる若い女性を、適当なレトロなフィルターをかけて撮った写真のどこが「エモい」なのか?Lo-fi Hip Hopの志向するレトロで気だるげなビジュアライズにはその安っぽいエモさを感じ、実際、音楽もロクに聴いてない若者がそれを見て「エモい」という。ここが地獄でなくてなんなのか。

肩の力を抜いた鼻につく「シティ感」

これは音楽の好き嫌いの問題でもあり、価値観の問題でもある。

サチモス、あるいはもっとそれ以前から、「シティ」がトレンドになっている。雑誌で言うならPOPEYEのような。彼らはメゾンキツネのTシャツにニューバランスを合わせ、たぶん休日は気の抜けたカフェでカレーを食べている。「そうでない奴ら」のことなんか何も気にかけてはいないフリをしながらも、心の奥底では見下している。シティでないものすべてを。

肩の力を抜き、まるで時代や他人に対して言いたいことなんてないかのような顔をしているが、ほんとはお洒落な自分を見てもらいたくてたまらないのだ。だからPOPEYEでリサーチしておいたレコード屋に行って「たまたま入ったレコード屋が良い感じ」と言いながらインスタでアピールする。Lo-fi Hip Hopだけでなく文字通り「シティ」ポップにも言えることだが、こういった脱力感は鼻につくし、滑っているようにも見える。

チル、トリップ、冷笑主義とネット社会

Lo-fi Hip Hopの大きなテーマは「厭世観」や「頽廃感」がある。今の若者はいわゆる「さとり世代」で、日本の将来に希望が持てず、一方社会情勢や政治のことにも比較的興味が薄く、手の届く範囲の近視眼的な幸せを求める、という傾向がある事からこのテーマが刺さるのであろう。
確かにその生き方自体は合理的でもあり、何も非難されるべきことはない。しかし問題はそれが行きすぎた時だ。これをここでは冷笑主義(シニシズム)と呼ぶ。

prtimes.jp

この記事で出てくるシニシズムのポイントとして、「感動の希薄化」と「冷めた目線」が挙げられている。「感動の希薄化」の象徴足るのが近年の安っぽい「エモい」の多様であり、「冷めた目線」というのがここでのテーマだ。

本気になるのがダサい、だったり、もっと言えば政治や思想に関して自分なりの考えを持つ事自体が何か恥ずかしい事かのような雰囲気をSNSで感じることがある。このような雰囲気が蔓延すると人々はますます思考停止に陥り、情熱を持った人を委縮させてしまう。

Lo-fi Hip Hopがその冷笑主義を助長させていて不適切だなんて言うつもりはことさらない。ただ、Lo-fi Hip Hopを聴いていると、その背後にある冷笑主義的イメージが浮かんでしまうのだ。一緒にストリーミングを聴いているシニ̪̪シストの姿が。

タダ乗り主義と音楽の「オブジェ化」

Lo-fi Hip Hopは既存の曲をダウンチューンするなどして曲を作る。これがパクリだと非難するわけではない。なぜならこれはサンプリングと呼ばれる立派な手法であるからだ(中にはパクリと呼んでしまいたいほどオリジナリティに欠ける曲もあるが)。

このサンプリング文化の影響かは知らないが、Lo-fi Hip Hopは無料で聴ける環境でよく配信されている。YouTubeでのライブストリーミングがいい例だ。このために、Lo-fi Hip Hopは「オブジェ的」に利用される事が多い。BGMのためにあるとも言えるジャンルで、なんの疑問もなくタタで音楽を聴いている。しかし、そこに自分は気持ち悪さをどうしても感じてしまう。小さい頃からお金を貯めてCDを買い、また新たなCDを買うまで延々と聴き続けてきたからだ。

今ではサブスクリプションに移行したが、漫画村やMusic FMといったアプリを使っている人は本当に心の底から軽蔑している。そしてYouTubeライブストリーミングの中には著作権的にグレーなものも数多く存在しており、果たして今聴いているコレは?と疑問を抱かざるを得ない。そしてそこに何の疑問を抱かないリスナーたちに、インターネットが生み出したタダ乗り主義を感じてしまうのである。

そしてタダ乗り主義といえば、音楽としてサンプリングを多用しているのは仕方ないとして、映像として既存の日本のアニメを使用しているのも正直気分が悪い(現在はオリジナルアニメーションも多いが)。あまりに潔癖すぎると思われるかもしれないが、創作物をフィジカルな形で買うことが少なくなり、かつネット上で(探せば)フリーな創作物へのアクセスを見つけられる現在、ますます創作物にお金を払う事の当然さというのが失われている気がする。ちょっとぐらい潔癖すぎるぐらいでちょうどいいと私は思う。

まとめ

この広いネット社会だ。この記事を読んでくれた人の中に猛烈な共感を抱いてくれる人が少しでもいる事を願っている。
そして、もし存在したら、この記事をひねくれもの仲間にシェアしてくれることもついでに祈っている。

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